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text:k_konjaku:k_konjaku12-31

今昔物語集

巻12第31話 僧死後舌残在山誦法花語 第卅一

今昔、阿倍の天皇1)の御代に、紀伊の国牟婁の郡熊野の村に、永興禅師と云ふ僧有けり。俗姓は葦屋の君の氏、摂津国の豊島の郡の人也。本は興福寺の僧也。

而るに、海辺の人を教化せむが為に、其の所に住して人を利益す。此れに依て、其の辺の人、禅師を貴ぶが故に、此の人を菩薩と云ふ。亦、禅師、都より南に有るに依て、天皇、禅師を名付て「南菩薩」と云ふ。

此如くして、其の所に有る間、一の僧有て此の菩薩の所に来る。何れの所より来れりと云ふ事を知らず。持(たも)てる所の物、法花経一部、小字にして一新写せり。白銅の水瓶・縄床一足也。此の僧、菩薩に随て、常に法花経を読誦しけり。

而るに、□□□□年余を経て、此の僧、「此の所を去なむ」と思ふ心有て、菩薩に告て云く、「今、我れ、此の所を罷り退て、山を超て伊勢の国に行むと思ふ」と云て、縄床を菩薩に与ふ。菩薩、此れを聞て哀むで、糯の干飯を舂き篩(ふるひ)て、二斗を僧に与へて、俗二人を副へて、共に遣て送らしむ。僧、一日を送られて、此の法花経并に持てる所の鉢・干飯の粉等を、此の送りに来れる俗に与へて、其(そこ)より返し遣つ。只、水瓶と麻の縄廿尋とを持て、別れて去ぬ。俗、僧何(いづ)こへ行ぬと云ふ事を知らずして、返て其の由を菩薩に申す。菩薩、此れを聞て、哀ぶ事限無し。

其の後、二年を経て、熊野の村の人、熊野河の上の山に入て木を伐て船を造る間、山の中に髣に法花経を誦する音を聞く。此の船造る人、久く山に有るに、日を重ね月を経るに、此の経を読む音尚止まずして聞ゆ。然れば、船造る人等、此れを聞て、貴び怪むで、「此の経読める人を尋て供養せむ」と思て、持たる所の粮を擎(ささげ)て、一山求め得る事無くして、其の形を見ず。然れば、本の所に返たるに、亦、其の経を読む音、本の如くして止まず。船造る人等、遂に求得ずして、家に返りぬ。

其の後、半年を経て、其の船を曳むが為に山に入ぬ。聞くに、経を読む音、尚前の如し。船曳く人等、此れを大に怪むで、船を曳かずして返て、菩薩に此の事を申す。菩薩、此れを聞て、忽に彼の山に行て聞くに、実に法花経を読む音、髣に有り。菩薩、此れを聞て怪び貴むで、尋ね求むるに無し。強に求むるに、一の屍骸有り。

此れを寄て吉く見れば、麻の縄を二の足に懸て、巌ほに身を投て死たりと見ゆ。死人も骨骸にて有り。麻の縄も皆朽にけり。側を見れば、一の白銅の水瓶有り。菩薩、此れを見て、前に別れ去にし僧の、此の山に入行ひける間、生死を厭て身を投げたる也と知て、泣き悲むで、本の所に返て、船造の人等を呼て、菩薩、泣々く彼の僧の身投たる今縁を語る。船人等、此れを聞て、貴び悲む事限無し。

其の後、三年を経て、菩薩、彼の山に行て聞くに、法花経を読む音、前の如し。然れば、菩薩、其の屍骸を取らむと為るに髑髏有り。髑髏の中を見れば、舌朽ちずして有り。菩薩、此れを見て、弥よ貴むで、「奇異也」と思ふ。「実に、此れ法花経を誦する功を積るに依て、其の霊験を顕せる也」と知て、泣々く悲び貴むで、礼拝して返にけり。

其の後は、弥よ実の心を発して、善根を修して、彼の僧の後世を訪ひけり。亦た、懃(ねんごろ)に法花経を誦する事、怠らざりけり。

此れを聞く人、皆法花経の霊験を貴びけりとなむ、語り伝へたるとや。

1)
元明天皇
text/k_konjaku/k_konjaku12-31.txt · 最終更新: 2015/07/04 02:00 by Satoshi Nakagawa