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text:mogyuwaka:ndl_mogyuwaka12-03

蒙求和歌

第12第3話(173) 向子聞笛

校訂本文

向子聞笛1) 向秀子、字は子期

晋の向子期、清悟にして、遠識ありし人なり。旧友嵇康、琴・詩・酒にたづさはりて、聞こえ高き人なり。大将軍として政(まつりごと)を執れり。

内史鍾会といふ人、嵇康に交はりを好みけれども、許さざりけり。鍾会2)、そねみて、「嵇康が世の政をそしれるなり」と司馬文王3)に讒しければ、文王、人のことにつきて、嵇康を殺さむとす。

嵇康、憂へたる色なし。たちまちに琴を取りて、黄陵散の曲を弾きていはく、「そのかみ、袁孝尼、『われに従ひて習はむ』と言ひき。われ、秘して教へざりき。うらむらくは、この曲の長く絶えなむことを」と言へり。

鍾会、来たりて、「われに従はば、命を助けむ」と言へども、嵇康、用ゐずして、頸を伸べて罪に従ひぬ。三千人の学士、請ひ受けて、師とせむとすれども、つひにかなはざりけり。

その後、向子期、深く恋ひ忍びけり。時に、嵇康が故郷を過ぐるに、日4)、虞渕にせまりて、氷、凄然たる冬の空の心細きに、変らぬ住処(すみか)を見るにも、行く末なくなりにしあはれを思ひ続くる折しも、隣に笛の声のするを聞きて、涙を押へて、思旧賦を作れりし。

その詞(ことば)にいはく、「隣人有吹笛者。発其声寥亮。想疇昔遊宴之好。(隣人、笛を吹く者有り。その声を発すること寥亮なり。疇昔の遊宴の好を想ふ)」と言へり。

  思ひきやぬしなき宿は袖ぬれて隣の笛に音をそへむとは

翻刻

向(キヤウ)子(シ)聞笛  向秀子字子期
晋ノ向子期清悟ニシテ遠識アリシ人也旧友嵆康琴
詩酒ニタツサハリテキコヘタカキ人也大将軍トシテマツリ
事ヲトレリ内史鍾会ト云人嵆康ニマシハリヲコノミ
ケレトモユルササリケリ鍾会ヲソネミテ嵆康カヨノ政トヲ
ソシレルナリト司馬文王ニ讒シケレハ文王人ノコトニツキテ
嵆康ヲコロサムトス嵆康ウレヘタル色ナシタチマチニ琴ヲトリテ
黄陵散ノ曲ヲヒキテ云クソノカミ袁孝尼ワレニシタカヒ
テナラハムトイイキワレ秘シテヲシヘサリキウラムラクハコノ曲ノ
ナカクタエナムコトヲト云ヘリ鍾会キタリテワレニシタカハハ
命ヲタスケムト云トモ嵆康モチヰスシテクヒヲノヘテツミニ/d2-28l
シタカヒヌ三千人ノ学士コヒウケテ師トセムトスレトモツヒニ
カナハサリケリソノノチ向子期フカクコヒシノヒケリ
時ニ嵆康カフル里ヲスクルニ白虞渕ニセマリテ氷リ
凄(セウ)然(セム)タル冬ノソラノ心ホソキニカハラヌスミカヲミルニモユ
クスヱナクナリニシアハレヲヲモヒツツクルヲリシモトナリニフエノ
コヱノスルヲキキテ涙ヲヲサヘテ思旧賦ヲツクレリシソノコ
トハニ云ク隣人有吹笛者発(スルコト)其声寥亮ナリ想(モフ)
疇昔ノ遊宴之好ト云リ
        おもひきやぬしなきやとはそてぬれて
        となりのふゑにねをそへむとは/d2-29r
1)
原拠は「向秀聞笛」とするものが多い。
2)
「鍾会」は底本「鍾会ヲ」。書陵部本により「を」を削除。
3)
司馬昭
4)
「日」は底本「白」。書陵部本により訂正。
text/mogyuwaka/ndl_mogyuwaka12-03.txt · 最終更新: 2018/02/23 13:07 by Satoshi Nakagawa